猫はしっぽを丸めて座っている。 ちょっかいを出すと、つめを引っ込めた前足でちょんと触ってくる。 触れるか触れないかの微妙な感触。 彼らにはこの感触で十分なのだろう。 ここにいる猫には名前がない、「名前はまだない」と自己紹介した猫がいたが、この猫にはこれからもずっと名前がない。 言葉を持たないってことはすばらしい。 何もすりかえることなんて出来ないって知っているのだから。 #
by terakawa_photo
| 2009-12-31 23:59
| まるまった猫のしっぽ
閉店間際のデパートの屋上で 街がだんだん急ぎ足になる夕暮れ時、デパートの屋上に上がって沈む太陽に少し追いつく。 丹念にデコレーションされたお菓子のような街並みは、たそがれの光に競りあがって、空までたどり着くと輪郭を失い一本の線になる。 人は、その境界線に一点を定めて、辿り着こうと懸命になる。 でも、地平線は瞳の中心を横切って近づいた分だけ逃げて行く。 自分をめぐるこの大円の中に、困難な山があり、いい香りの花が咲く。 太陽が去った方向を見つめて、背伸びをしたり、しゃがんでみては、 地平線までの距離を測る。 #
by terakawa_photo
| 2009-06-30 03:17
| まるまった猫のしっぽ
ある marché aux puces にて 休日のある晴れた日。 周囲を見渡し誰もいない事を確かめて、そっと「僕は嘘をついている」と、告白する。 光を受けて浮かび上がっている目前の風景は、僕には何も見えていない事を本当は知っています。 水の詰まった小さな皮袋が、反射によって飛び込んでくる光の束に反応して膨らんだりしぼんだりしているだけなんだと。 実は、自身の存在の如何わしさに随分昔から気が付いています。 一個の細胞が何度となく分裂を繰り返し一塊の肉となり、酸素に焼かれまいと作り出した外壁の内側に出来た空洞。 人はその中に言葉を持っている。 言葉は意味を引き寄せ、連なって長い長い螺旋の階段になる。 始まりも終わりも見えない階段の途中にずっと僕はいる。 #
by terakawa_photo
| 2009-06-30 01:29
| まるまった猫のしっぽ
プラハ カレル橋にて 遠い国に住む人がいる 北の国が始まる街の橋の上で、歌う人がいる。 人は、川を滑る冷たい風を震わせて歌っている。 歌声は、言葉を空に溶かして風と散り、 耳は、凍る痛みに耐えて流れる旋律をつかむ。 冷やされて、速度を上げた音の波紋は、雲と水面の間で円を重ねる。 石畳を伝って、橋の橋脚を打つ水音が聞こえる。 幾重にもさざめく川の水も、波を失い流れを止めると、空を写して一枚の鏡になる。 永らく、一滴のしずくを待つまでの間、その存在を忘れ去られることになる。 大気の中に、この身を置く幸福と歌う勇気。 かじかんだ足を小刻みに動かしながら、冷えた空気の震えを味わう。 #
by terakawa_photo
| 2009-06-30 00:00
| まるまった猫のしっぽ
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